「人が亡くなる」ことを実感したのは祖母の最期を目の当たりにしたとき。よくも悪くも人生が有限であることを意識させられたお話
新型コロナウイルスに感染し、闘病中だったお笑い芸人志村けん(70)が亡くなった。2020年3月29日午後11時10分、肺炎のために都内の病院で逝去したとのこと。
【速報】 #新型コロナウイルス への感染が判明し入院していたタレントの #志村けん さんが亡くなったことが分かりました。70歳。 pic.twitter.com/3VWq3hzFBf
— TBS NEWS (@tbs_news) March 30, 2020
志村けん氏の訃報。芸能人は普通の人よりも感染の危険性も高いのかな?
志村けん氏の訃報を受け、各所から悲しみの声が挙がるとともに、新型コロナウイルスへの認識を改める人が増えているという。
「このウイルスは危険」 「人は本当に亡くなる」 「対岸の火事ではない」
これまでは「8割は重症化しない」「仮に重症化してもほとんどは助かる」「危険なのは高齢者」「若者は軽い症状で済む」などなど。比較的このウイルスを軽く見る傾向もあった気がする。
だが、ごく最近まで元気だった有名人が突然亡くなったことにより、多くの方が他人事ではないと感じたのではないか。
僕自身はだいぶ前からこの状況にビビり倒しており、毎日の手洗い、うがい+朝晩の体温測定を徹底しつつ外出時にはマスク着用という生活を送っている。
今回の訃報に関わらず、この混乱が1日でも早く収まることを祈りながら頭を低くして過ごしている次第である。
また志村けん氏の逝去は非常に悲しい出来事だが、芸能人に関しては普通の人より感染の危険性が高いのかな? とも思っている。
華やかな世界である分、繁華街での付き合いも多いだろうし、本人もお酒や煙草が好きな人間だったと聞く。 自粛の要請があってもテレビの収録を飛ばすわけにもいかず、マスク着用+1m以上離れて~というのもあまりに不自然。その上収録スタジオの換気がいいのかどうかも不明である。
恐らくだが、今回は誰が悪いわけでもない。いろいろと不運が重なり悲しい結末となってしまったと言えるのではないか。 志村けん氏のご冥福を心からお祈りします。
僕は祖母の逝去によって「人が亡くなる」ことを実感させられた。徐々に肉体から生命が失われていく様子
表題の通りなのだが、僕が「人が亡くなる」ことを実感したのは祖母が逝去したとき。
以前にも申し上げたように僕の祖母は85歳で亡くなっているのだが、それまでは長年施設に入っていた。
70歳半ば頃から痴呆が始まり、徐々に自宅介護が厳しい状態に。最初の数年は何とかがんばってみたものの、家族ともども疲弊してきたところでやむなく施設へ預けることを決めた。
そこから紆余曲折ありつつ、施設を何回か移った末に最後は病院のベッドの上で息を引き取るという流れである。
だいぶ時間が経った今だからこそ冷静に振り返れるのだが、祖母が亡くなる直前の数ヶ月は本当にキツかった記憶がある。先の見えない介護の大変さはもちろんだが、自分の家族が徐々に弱っていくのを見る辛さ、悲しさというのは筆舌に尽くし難い。
自力で食事を摂ることがだんだんと難しくなり、隣で手伝わなくてはならないケースが増える。ある日を境に食器が箸からスプーンに代わり、白いご飯は蒸かしたお粥となる。首の座りが悪く、座る椅子もいつしか高さが調節できる背もたれの長いものに。
そうこうしているうちに歩行も困難となり、移動はすべて車椅子。歩かなくなった途端にみるみる足が細くなっていき、寝たきり状態になるまでに大した時間はかからなかった。
その頃にはまともに物も食べられない状態で、食事中に嘔吐してしまうこともあったとか。入退院を繰り返すうち、施設側からはついに「終末期を過ごす養老院を紹介するから出て行ってくれ」と言われてしまう。
そして入院が長期化すると、今度は医者から「こういう人にベッドを占領されると病院が儲からなくて困るんですよ」と心ない暴言を吐かれる始末。
当の本人は顔もやつれ、さらに足は細くなってもはや枯れ枝のよう。 寝たきりのせいで風呂にも入れず、手も顔も垢だらけ。
ここから回復する見込みはないとわかっていながら「大丈夫だから」「絶対によくなるから」と声をかけ続ける日々に胸が張り裂けそうになる。
少しずつ肉体から生命力が失われていく様子を目の当たりにし、「人が亡くなる」ことをリアルに感じ始めたのもこの時期だった。
「人間、追い込まれると思考が停止する。娯楽はあくまで安定した日常があってのもの」
これまで「遠い世界の出来事」だったものが身近なリアルとして感じられた。自分の人生って有限なんだな、と
ある日の夜中。 病院から「祖母の心臓が突然止まった」との連絡を受けて大急ぎで駆けつけると、そこにはすでに息を引き取った祖母の姿が……。
顔を触るとまだ体温が残っているのだが、身体から“命の鼓動”を感じることはなく。
悲しみで涙が止まらない中、「ああ、そうか。人って本当に亡くなるんだな」と冷静に受け止める自分がいたことも覚えている。
繰り返しになるが、「人が亡くなる」ことを僕が実感したのは祖母の最期を目の当たりにしたとき。
同級生や先輩、教師など。これまで昔の知り合いが亡くなったという話は何度か耳にしたことがある。また、今回のように有名人の突然の訃報に驚かされたことも一度や二度ではない。
ただ、それらはあくまで「遠い世界の出来事」に過ぎず、いまいちピンとこなかったのが本音である。
だが、数ヶ月かけてゆっくりとだが確実に“生命”が失われていく祖母の様子はまったくの別物。苦しそうな表情を浮かべる姿に悲しみが噴き出すとともに、自分の人生が有限であることも実感させられた。
「当たり前など存在しない」とか「健康な日常に感謝」といった大げさな話ではない。命が失われていく過程を直視することで、逆に自分が生きていることを実感できたというか。
僕の貧弱な語彙ではうまく表現できないのだが、今回の志村けん氏の訃報によって「人生が有限」であることを思い出した次第である。
ちなみにだが、先日、僕の知り合い(と言ってもかなり年上)が父親を亡くしたのだが、その際の年齢が祖母と同じ85歳だったという。
だが僕の祖母と違い、痴呆もなく頭はずっとしっかりしていたとのこと。半年ほど前に癌が見つかり、あっという間に身体中に転移し最後は手の施しようがない状態だったとか。
身体は健康だが痴呆が少しずつ進行し、結局10年以上も介護が続いた僕の祖母とはまったく逆のパターンである。
痴呆で自活がままならず、施設で面倒を見てもらいながら迎える最期。 病気が一気に進行し、短期間で苦しみながら迎える最期。
正直なところ、どちらがいいかは僕にはわからない。
だが、少なくとも寝たきりだった祖母の数ヶ月間は今でも思い出すだけで胸が締め付けられる。仮に自分がどちらかを選べと言われたら、あっという間に病気が進行する方を選択するのかなぁとは思っている。
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