スポーツにおける暴言、暴力による熱血指導()で抱えたトラウマの話。「あの頃があったから今の自分がある」のかもしれないけど、負の側面の方が多そうだよね【長文】

スポーツにおける暴言、暴力による熱血指導()で抱えたトラウマの話。「あの頃があったから今の自分がある」のかもしれないけど、負の側面の方が多そうだよね【長文】

先日「東洋経済オンライン」に下記の記事が掲載された。
 


バレーボール元日本代表の益子直美氏と大山加奈氏が、日本バレーボール界の指導や練習方法について自らの経験に基づく意見を語ったもの。
 
 
益子氏は中高で指導者から恒常的に暴言暴力を受けた経験がある。
 
そして、暴力以上に暴言の方がキツかったとのこと。
「お前は本当デカいだけだ」「大事なときに決めないと、真のエースではない」などの厳しい言葉によって追い詰められた。それが大きなトラウマとなっており、今でも橋の上から自殺する夢を見ることがある。
 
また大山氏は26歳の若さで現役を退いたが、その要因の一つにスポーツ障害があったという。
50、60代の患者が中心と言われる脊柱管狭窄症を20歳そこそこで発症し、今でもしびれを感じることがある。
原因は小学生時代からスパイク動作を繰り返したことが大きく影響しているとのこと。一発勝負のトーナメントに対する熱や過度な期待感が、若年層のオーバーワークを招く危険性をはらんでいるといった内容である。
 
 
これに対して、男子400mハードルの日本記録保持者の為末大氏も「全国の指導者はこれを見てほしい」と反応している。


 

スポーツ界にはびこる旧態依然とした慣習への提言? バレーボールも意味不明な暗黙の了解が多そうだよね

この手のネタは「スポーツ界の古い慣習への提言」といった括りでたびたび話題に上がる。
 
そして、そのたびに「時代錯誤な体育会系のやり方はなくすべき」という意見や「あの頃があったから今の自分がある」と主張する方など、様々な反応が見られる。
 
何が正解で何が不正解かは“自分の人生”を2度生きられない時点で何とも言えないのだが、どちらにしても指導者からの暴力・暴言でトラウマを抱えた方が少なくないのは間違いなさそうである。
 
 
以前、大リーグのタンパベイ・レイズに所属する筒香嘉智選手(当時はDeNAベイスターズに所属)がアマチュア野球の指導方法について提言して大きな反響を呼んだ。

日本の野球人口は少子化をはるかに超えるスピードで減少しており、このままでは野球自体が衰退してしまう。それを防ぐためには旧態依然としたアマチュア野球の指導方法を根本的に変える必要があるといった内容の話。
 
日本の野球人口が減っていることは僕もたびたび耳にしているが、改めて考えるとそれも仕方ないと思わされる。
 
・バカ高い道具
・わけのわからん掛け声の強要
・謎の坊主頭
・高圧的で乱暴な指導者
・奴隷と神様のような上下関係
 
その上、少年野球チームの保護者には様々な手伝い、当番の義務が課せられるとか。
 
「こんなにあるの、保護者の仕事。恐るべし「お茶当番」」
 
マジな話、プレー以外にこれだけ意味不明で不愉快なオマケがついてくるのであれば、わざわざ野球を始めようなどと思うはずがない。
指導者の意識改革はもちろん重要だが、それに付随する余計なものをなくす努力をしないと難しいのかな? という気がする。
 
 
そう考えると、もしかしたら女子にとってのバレーボールは男子における野球と若干近いのかもしれない。
 
・よーわからんバレー用語を絶叫
・謎の黒髪おかっぱ頭
・クソ厳しい上下関係
・軍隊並? の熱血指導
・もれなく指がぶっ壊れる
・腰、膝をイワす
 
バレーボールは間違いなく学生スポーツの花形だが、益子氏や大山氏が言うように「これ、本当に必要か?」と思うような古い慣習も多く残っているのだろうと。
 
そもそも一番オサレをしたい高校時代に男子は坊主頭、女子はおかっぱを強要されるって、地獄以外の何物でもないですからね。
 
武術・武道がセーショーネンのケンゼンイクセーに役立つ? わけがない。効率よく他人を無力化する技術と人間性に何の関係が? 極真の昇段審査で1人がボコされる動画を観て
 

僕も指導者に怒鳴られたり気まぐれで暴力を受けた経験がある。「頂点を極めたスポーツマンは人格者であれ」とかいう詭弁

僕自身は個人競技、団体競技問わずいろいろなスポーツに手を出してきた人間だが、幸い? 全国レベルでプレーしたことはない。なので、上記の記事にあるような名門校/企業チームの理不尽な厳しさは未経験である。
 
ただ、指導者から怒鳴られたことは数知れず。
「バカ野郎」
「ゴルァ!!」
「何でできねえんだ」
「やる気が感じられない」
「やめてもいいんだぞ」
などなど。
 
益子氏の「お前はデカいだけ」といった、存在を全否定されるような言葉ではないものの、それなりに傷ついて委縮したことはよく覚えている。
 
僕がサッカーを嫌いな理由。「悩みがある人間はスポーツをやれば解決する」とかいうスポーツ万能クソ理論が反吐が出るほど嫌いです
 
また、小学校時代にとある武道を習いに道場に通っていたのだが、そこでの指導者? 師匠? 先生? から殴られたりもした。
 
当時はまだ習いたてだったのだが、その指導者は素人に毛が生えた程度の僕を試合形式の稽古? 乱取り? に駆り出し、みんなの前でボコボコにするというまさかの事態にww
 
本来、その稽古は僕のような素人がやっていいものではなく、似たようなレベルの道場生がやっているのを見たこともない。
 
今考えると完全にその指導者の気まぐれとしか思えないのだが、小学校低学年だった僕は何が起きているのかすらも理解できず。
 
突然の教育的指導()に混乱するやら恥ずかしいやらで、ただただこの時間が早く終わってほしいと願うばかりだった。
そして、ようやく解放されたあとは全身の痛みと悔しさと恥ずかしさでいたたまれず、道場の隅っこで小さくなっていたという。
 
周りの人間が心配して代わるがわる慰めにきてくれるのだが、いや、それがまた……。
彼らの優しさはありがたいのだが、とにかく「今は放っておいて」と思いながら涙をこらえていた記憶がある。
 
以前から僕は「スポーツで頂点を極めた者は人格者であれ」的な風潮を詭弁中の詭弁だと思っているのだが、ひょっとしたらこういう経験が根底にあるのかなぁと思ったり。
 
人柄が~、品格が~とかうるせよww
スポーツの実力と人間性は関係ねえだろ。
運動神経がよかろうがクズはクズでしょ。
みたいな。
 
 
ついでに言うと、成長期にハードな練習? 稽古? を繰り返したせいで、左ひざに豪快なオスグッドを発症しているww
現在は痛みも可動域の不自由もないが、僕の左ひざは皿の下がボコッと飛び出した状態である。
 
↓こんな知識もなかったしね。
「子どもの膝の痛み「オスグッド病」とは。原因と予防ストレッチを専門家が解説」
 

暴力や暴言を伴う熱血指導()は負の側面の方が多い気がするよ。自己肯定感の低さを植え付けられるし

申し上げたように暴力や暴言を伴う熱血指導()が正解か不正解かは僕にはわからない。
僕自身も少なからずそっち側の人間だったし、「あの辛さがあったからこそ今の自分がある」とおっしゃる方がいることも事実。
 
 
個人的な意見を言うなら、暴力や暴言に頼る指導がいいとはまったく思わない。
だが、一点の曇りなく突き進むパワーを得られるという側面は確実にあるような気がしている。
 
「この人の言うことを信じていれば間違いない」
「これだけやっていれば必ず結果が出る」
信念というか、信仰にも似た底力で猪突猛進できる精神力は、それなりに厳しい環境を潜り抜けた経験があってこそではないかと。
 
のちのちトラウマが残るような暴言や暴力を“厳しさ”と呼んでいいかは甚だ疑問ですが。
 
スポーツの場で傷ついた経験、僕にもあるっすよ。身体を動かすのは好きだけど、体育会系のノリが大嫌いな僕が為末大氏の話題に乗ってみる
 
一方、こういった指導の致命的な負の側面として、受けた側が自己肯定感の低さと思考停止を植え付けられるというのがあると思う。
 
上記の記事内で益子氏も言っているが、多感な中高の時期にはっきりとした主従関係のある相手(指導者、先輩など)から暴力や暴言を受け続けた場合、多くの人間が自分に自信が持てなくなる。
 
ミスをしないように、怒られないように、迷惑をかけないように。
そればかりを意識するうちに常に無難な方向を選ぶようになり、チャレンジ精神は根こそぎ失われる。
「自分ごときが」的なネガティブな思考に支配され、ここぞの場面で一歩踏み出だせないとか、そんな感じ。
 
恐らくこれはスポーツだけでなく教育の現場や実社会でも“あるある”だと思うが、ここに関しては我ながら結構自覚がある。上述の益子氏ほどではないにしろ、自己肯定感の低さや勝負どころでの行動力のなさは自分でも感じている部分だったりする。
 
 
信仰に近いレベルで一片の疑いもなく自分の道を突き進むパワーを得られる半面、思考停止による画一化と自己肯定感の低さを植え付けられる。
改めて見ると、僕には負の側面の方が大きいような気がするが。
 

かつて自分がやられたことを、後輩や年下の人間にやったりはしていないか? と自問しつつ。
 

需要と供給のバランスだよね。少子化と景気後退で競技人口が減れば、1人1人を大事に扱うようになる

結局のところ、こういうのは需要と供給のバランスが大きいわけで。
 
かつては子どもの数も多く日本の景気もよかった。
 
なので、スポーツの現場ではどれだけ暴言、暴力を伴う指導で選手を傷つけようが、代えはいくらでも用意できた。
それこそ非科学的な練習に耐えられる頑丈さと理不尽な指導にもめげない精神力を併せ持った選手の中から、才能のある人間を自分の好みで選んでいればいい。
野球のような人気スポーツならなおさらである。
 
ところが少子化と長引く景気後退によって競技人口は減少し、各々の意識改革も手伝いかつての指導方法は通用しなくなった。
 
有効求人倍率などと同様、需要が供給を上回れば需要側は必然的に競争を強いられる。現在の待遇を改善してよりよい環境を提供し、少しでも優秀な人材の確保に努める流れ。
就職戦線における売り手市場、買い手市場の関係性とまったく同じ現象である。
 
仕事ができないんじゃない。したい時だけする。それが選ばれし者のスタイル【おっさんはゴルゴ13】
 
今でこそ「スポーツは楽しむもの」「選手と指導者は対等」などと綺麗ごとを言っているが、仮にこの先、日本の景気が超回復して第1次ベビーブーム並の人口増加が起きれば、あっという間に旧態依然とした指導者が蔓延る時代に戻る可能性もある。
 
つまり、スポーツは苦しく辛いものなのである。
その苦しみの先にこそ、本物の喜び、美しさが待っているのである(違
 
 
ちなみに僕の高校時代のバスケ部がまさに暴力、暴言のオンパレードな部活だったのだが、はた目からもクラスメートが「コイツら楽しいのかな?」と思わざるを得ない表情をしていたことが印象深い。
 
しかもアレだぜ?
 
弱いんだぜ?
 
アホみたいに罵詈雑言を浴びせられた上に弱いって、そんなバカな。
史上最強にタチが悪いですよねww
 

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