スポーツの場で傷ついた経験、僕にもあるっすよ。身体を動かすのは好きだけど、体育会系のノリが大嫌いな僕が為末大氏の話題に乗ってみる

スポーツの場で傷ついた経験、僕にもあるっすよ。身体を動かすのは好きだけど、体育会系のノリが大嫌いな僕が為末大氏の話題に乗ってみる

元陸上選手の為末大氏の発言がちょろっと話題になっていたので。


全文は下記↓
 
「スポーツが嫌いな人へ」
 
本人は指導者や練習環境に恵まれ充実した競技生活を送ることができた。
だが引退後に競技を離れてみてスポーツを嫌っている人や憎んでいる人、やってみて嫌いになった人がこんなにいるのかと驚かされた。
 
また現役中も選手を怒鳴りつける監督の姿やスポーツ界に根付く理不尽な縦社会を目にしていたこともあり、仮に自分があの環境に置かれればスポーツが嫌いになっていた可能性が高い。
 
自身はスポーツは素晴らしいものだと思っているが、そういう人間を冷ややかに見ている人がいることも理解する必要がある。
 
ただ、社会におけるスポーツの価値は高いという考えは変わらないので、今後は(も)スポーツのあるべき形を模索していきたい。
 
だいたいこんな内容である(違ったらすみません。中身を読んでいただければ)。
 
 
僕もスポーツ観戦や自分で身体を動かすのが好きな人間だが、スポーツで嫌な思いをした経験は数え切れないくらいある。
なので、上記のネタに関しても言いたいことは多い。
 
 
自分の中でいまいち考えが整理しきれておらず結論もクソもないのだが、まあいいや。思いつくままにあれこれ言ってみることにする。
 

身体を動かすのは好きだけど体育会系のノリは大嫌い。理由は根本的にソリが合わないから

まず申し上げたように僕は身体を動かすのは好きだが、体育会系のノリみたいなものは大嫌いである。
 
理由は根本的にあいつらとソリが合わないから。
 
為末大氏は「社会に出てスポーツを嫌っている人や憎んでいる人が多いことを初めて知った」と言っているが、僕に言わせれば「何を今さら」である。
 
この方はスポーツ界に身を置いている人間の中では比較的思慮深い方なのだと思うが、それでもこの程度なのだからその他大勢に関しては推して知るべし。スポーツエリートと呼ばれる大部分は“できる側”の高圧的な視点しか持ち合わせていないと想像する。
 
その最たる例がコイツ↓


才能があり性格は社交的で見た目もいい。
“できる側”の人間がそうではない側の苦労、苦い思いを知らずにチヤホヤされまくった結果、こういうインテリ気取りの勘違い野郎が出来上がる。
 
自分の居場所を作るには「勇気を持って一歩踏み出す」ことが必須らしいが、その勇気とやらが原因でクラスの笑いものにされる可能性に思いが至らない時点でお話にならない。
 
 
短絡的な脳筋が人生相談と称してドヤ顔で害悪をまき散らす。
周りも「うんうん、そうだね」とありがたがって思考停止でそれを受け入れる。
 
率直に申し上げて地獄である。
 

“スポーツを嫌っている人”と“やっていたけど傷ついている人”は別。ここを混同してギロンしているケースが多いような…

為末氏の言う“スポーツを嫌っている人”と“やっていたけど傷ついている人”は分けて考えるものだと思っていて、本人もそう言っている。
 
 
前者の“スポーツを嫌っている人”というのは根本的に運動が苦手だったり、うまくプレーできないことで嫌な思いをした人。
 
体育祭などの行事では上述の“できる側”の人間は楽しく参加するが、逆に運動が苦手な人は行事そのものが嬉しくない。で、積極的に参加しないことで批判的な視線に晒され、さらなる疎外感を抱く。
 
 
一方、“やっていたけど傷ついている人”というのは部活動などで先輩後輩の上下関係や指導者の理不尽さに嫌気がさした人。身体を動かすことは好きだが、置かれた環境が原因でスポーツから離れていくパターンである。
 
為末氏は今回は後者の“やっていたけど傷ついている人”を何とかしたいと考えているようだが、それはそれ。
 
スポーツ界の理不尽さ、指導者の横暴さが問題視されることが増えてきた昨今だが、意外とこの“スポーツを嫌っている人”と“やっていたけど傷ついている人”を混同してギロンしているケースが多いと感じる。
 
 
そして、僕自身はどちらの経験もある。
 

“取り合いじゃんけん”で「いらないヤツ」認定される地獄。できない側を見下す、できる側が群れる文化

僕は昔からサッカーが苦手で、それが原因で大のサッカー嫌いになったのは以前申し上げた通り。
 
僕がサッカーを嫌いな理由。「悩みがある人間はスポーツをやれば解決する」とかいうスポーツ万能クソ理論が反吐が出るほど嫌いです
 
運動自体は好きだが“ボールを蹴る”行為がダメなせいで何度も嫌な思いをしてきた。
 
 
よくよく振り返ってみると、チーム決めの際に行われる“取り合いじゃんけん”がしんどかったことを思い出す。
キャプテン同士がじゃんけんをして勝った方から交互にチームメイトを指名していくアレだが、残されるメンバーはいつも似たような顔ぶれ。最後の方になると「ほしいヤツを選ぶ」のではなく「いらないヤツをどちらが引き取るか」の勝負になる。
 
で、僕などはだいたい最後まで声がかからない側だったという。
 
これ、選ぶ方は何の気なしにやっているわけだが、選ばれる側(最後まで残る側)にとってはたまったもんじゃない。特に「いらないヤツをどちらが引き取るか」の天秤にかけられる人間は毎回が拷問になる。
 
チーム力が均等になりやすいというメリットはめちゃくちゃ理解できるが、その裏で特定の人間が傷を負う残酷さはもっと注目されるべき。学校が世界のすべてと言っても過言ではない小、中学生ならなおさらである。
 
 
と同時にサッカー以外ではめったに「いらないヤツ」にならずにホッとしていたのも事実。
今まさにそれを思い出して「ああ……」となっている。
 
うん。
そうだよな。
 
“できない人間を見下す”文化、“できる側で群れる”文化ってスポーツ界ではクソほど顕著ですからね。
僕もサッカー以外の場では“そっち側”から他人を見下してたんだろうなと。
 
 
“できる側”が群れを成してスクールカーストの頂点に君臨し、“そうじゃない側”をあざ笑う文化を押し付けられれば、そらスポーツが嫌いな人間はどんどん嫌いになりますよね。
 

指導者から怒鳴られたり先輩から殴られたりは何度もしたよ。“師匠”と呼ばれる人間に気まぐれでボコられたことも

後者の“やっていたけど傷ついている人”については、上述のサッカー嫌い云々以上に多く経験している。
 
 
僕は幸い? 全国レベルやプロレベルでの競技経験はなく、よく聞く名門校や名門企業チームでの理不尽さを体験したことはない。
 
だが、指導者から怒鳴られたり先輩から遊び半分で殴られたりといった経験は数えきれないほどある。
そして、そのたびに委縮して身体が縮こまり、上手くなるための練習ではなく“失敗しないため”の練習になっていった気がする。
 
 
さらに小学生時代にある道場に通っていた際、そこでの指導者? 師匠? に意味不明にボコられたというのは下記の通り。
 
スポーツにおける暴言、暴力による熱血指導()で抱えたトラウマの話。「あの頃があったから今の自分がある」のかもしれないけど、負の側面の方が多そうだよね
 
当時はなぜ自分がこんな目に合うのかがまったく理解できなかったが、改めて考えても意味がわからない。実際には深い理由など存在せず、その指導者の単なる気まぐれだったのだと思うが。
 
 
理不尽なしごきに耐える頑丈さと意味不明な上下関係にも屈しない精神力を併せ持つ一部のエリートはこうしてのちのち笑い話にできるが、その裏で才能を潰された人間も多くいたと想像する。

実際「飲むな休むな」の中で育った選手が別の環境でも同じ結果を出せたかどうかは不明だが、少子高齢化、不景気が続く今の日本でそんなことをやっている余裕はどこにもない。
 

ここ最近、地域スポーツの現場では「おっさんの怒号」が聞こえなくなった

ちなみに僕は昔から地域スポーツの現場に触れる機会が多いのだが、昔と今とで大きく変わったのが「おっさんの怒号が聞こえなくなった」こと。
 
一昔前(と言っても6、7年前)はグランドのいたるところで指導者らしきおっさんの怒号が響き渡っていたのだが、ここ最近はそういう声を聞く機会はまずない。
 
また、おっさんの怒号が聞こえるたびに「週末の休みに真昼間から人様の子どもを怒鳴りつける人生ってどうなのよ?」と思っていたのだが、それを口に出すと「そういうのも必要かもしれないよ」とキレ気味に指摘されたりもした。
 
だが、今そんなことを言っても耳を貸す人間がいないのは明らかである。
 
つまり、ようやく時代が僕に追いついてきたと言える(違
 

「スポーツ、武道を通じた人間形成」論が大嫌い。スポーツを通じて人格が育まれるなんて詭弁だから。ソースは僕

諸々の要因から僕は体育会系のノリとは根本的に合わないわけだが、それと同じくらい「スポーツ、武道を通じた人間形成」論が嫌いである。
 
上記の「サッカーを嫌いな理由」内でも申し上げているが、「悩みがある人はスポーツをやれば解決する」「自分は○○に救われた。困ったら一緒に○○をやろう」という意見を僕は心底クソだと思っている。
 
特に「一定以上のレベルに達した選手は人格も優れている(優れているべき)」と考える人間、「スポーツ、武道が人間形成に役立つ」とのたまう人間がホントに苦手。
 
こういう「スポーツ万能論」は詭弁中の詭弁だと断言させていただく。
 
理由は上述の通り、“できる側”の人間に何度も嫌な思いをさせられてきたから。
 
チーム競技の場ではいらないヤツに認定され、個人競技をやれば師匠と名の付く人間に気まぐれでボコられた。
 
その結果、できない側の苦しみを見ようともせずに「自分の居場所を作るには勇気を持って一歩踏み出すことが大事」などとほざく人間が支持される世界が構築される。
 
スポーツがいつどこで人間形成に役に立っているのか、誰がどう救われたのかがマジで謎。
スポーツをやればそのスポーツが上手くなるだけだろと僕などは思っているのだが。
 
 
もちろんスポーツを通して気づきを得る人間、救われる人間がいないとは言わないが、そんなものは人による
 
為末氏の最初の発言に戻るが、スポーツだけの世界にいるとスポーツが好きな人、スポーツによって成功体験を得た人とばかり触れるせいで視野が狭くなるよねという話。
 
すべてのソースは僕。
 

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