人間には生まれながらの“不良品”が存在するのか。川崎殺傷事件に対する松本人志の発言・炎上を受けて考えてみる

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スラムイメージ
2019年5月28日に神奈川県川崎市多摩区登戸で発生した無差別通り魔殺人事件。
朝の通勤時間帯に起きた痛ましい事件は、犯人の自殺によっていまだに動機などが解明されない状況が続いている。
 
 
これについては個人的に思うところがあり、どこかのタイミングで取り上げてみようと思っていた。だが、いまいちきっかけがつかめず延び延びになっていた次第である。
 
ただ、先日ダウンタウンの松本人志による番組内での「不良品」発言が炎上したことで、とりあえずの踏ん切りがついた。
 
「人間が生まれてくるなかで、どうしても不良品って何万個に1個(生まれる)。」
この発言が是か非か、事件の根本原因は犯人の境遇、環境によるものなのか。
 
ある程度の批判を覚悟で、僕なりの考えを言ってみたいと思う。
 
 
てか、普段は自分の中で何となく筋の通った理論があるのだが、今回に関しては丸裸だからね。ガーーッと理屈を並べられたら「その通りです」って言っちゃうかもしれないんですよね。
 
それくらい、この川崎殺傷事件については考えを整理しきれていない状況である。
 
「京都アニメーション火災が平成以降最悪のテロだった件。単独犯、民間、計画的放火……。ここまで身勝手極まりない生き物を“人”として扱えと?」
 

松本人志の「生まれついての不良品」発言が正しいかは僕にはわからない。なぜなら人生はやり直しがきかないから

まず大前提として、今回の事件はあり得ない。マジであり得ない。
 
本人がどれだけ人生に絶望していたか、社会に対する不満を抱えていたかに関わらず、他人を巻き込んだ上で自殺するというのは最悪。当たり前だが、擁護する部分はいっさい見当たらない。
 
しかも刹那的に暴発したのではなく、計画的な犯行だったというのもタチが悪い。前日までの行動を辿れば犯人が相手や場所、時間などを選んでいたことは確実。自分よりも力の劣る相手を選んで危害を加えるという卑劣極まりない行為である。
 
なので、この犯人が人間的、社会的にアウトという結論に異論はないと思う。
“不良品”という表現が適切かはわからないが、少なくとも人として普通でないことだけは断言できる。
 
「多摩ニュータウン=ゴーストタウンとかいう風評被害。クソ賑わっててワロタw ここがゴーストタウンなら日本の9割ゴーストタウンだわ」
 
そして「人間には生まれついての不良品が何万個かに1個混じる」という意見については、正直よくわからない。
 
「生まれながらの不良品などいない」
「犯人が犯行に至ったのは環境のせい」
こういう主張、意見もたくさん聞こえてきたが、それもよくわからない。
 
なぜなら人生は一度しかないから。
 
当たり前だが、僕はこれまで殺人を犯した経験はないし、今後も犯す予定もない。
ただ、もし別の環境、年代に生まれていたら? と聞かれると何とも言えないところである。というより、現実的にそんなことは無理なので答えようがない。
 
まったく同じ人間が生まれ変わって別の環境に身を置くことができない手前、環境によって犯罪者となるのか、そうならないのかを知ることは不可能。犯人が犯行に至った原因が先天的なものなのか、後天的なものなのかの答えが出ることは永遠にない。
 
つまり、松本人志の「生まれながらの不良品」発言は一つの意見として受け入れざるを得ない。
 
もう一度言うが、人間を“不良品”と呼ぶことが適切か、それをテレビで流したことが正解かは別の話である。
 
「北海道好きな街、もう一度行きたい街ベスト5(5~3位)。観光の参考にはならないよ。僕が好きなだけだから」
 

僕もそこそこしんどい環境を通り抜けてきました。自慢するわけじゃないけど

以前にもちょろっと申し上げたが、僕自身もそこそこしんどい環境に身を置いていた人間だったりする。
 
・上司からのパワハラ
・残業100時間超え
・3ヶ月連続出勤
・圧迫面接
・24時間2交代の超絶ブラック企業勤務
・2日連続徹夜
 
細かい話をすれば、自己責任論者に山ほど責められたこともあるし、初対面の面接官に「君は認識が甘過ぎる」と小一時間罵倒されたこともある。
ドン引きされるので詳細は伏せるが、育った家庭環境も今回の犯人以上に複雑である。
 
別に自慢する気もないのだが、おおよそ考えられる社会的ネガティブ要因は一通り網羅していると思う。
 
 
そして精神的、肉体的に追い詰められた状況でかけられる「みんなもそうだよ」という言葉が何の慰めにもならないことも知っている。
 
これ、当時行き詰まった僕を見かねたデキる大人()が決まって口にした台詞なのだが、はっきり言ってクソの役にも立たなかった。
 
恐らく
「自分だけが辛いわけじゃない」
「だから負けるな」
「がんばれば道が拓ける」
という意味の叱咤激励なのだと思うが、僕にとっては心底無意味だった。
 
 
逆に自分を振るい立たせる意味で効果てきめんだったのが、2ちゃんねる(今は5ちゃんねる)を見ること。あそこで自分よりも厳しい環境の人間を見つけて悦に入る。これが想像以上の癒しを僕に与えてくれた。
 
ド底辺なコミュニティを目の当たりにすることで「自分よりも下がいる」という安心感、優越感を得る。ゲスいやり方ではあるが、わかったふうな口調で「みんなもそうだよ」と諭されるよりもよっぽど明日への活力になった。
 
「手を出したら負け? わからないヤツは殴ってもいい? 学校での体罰は是か非か←いや、ダメに決まってるけどなw」
 

自己責任論者の言い分はおかしいと言ったら、自己責任論者に怒られた。こういう抑圧で居場所をなくした人って多いんだろな

以前、下記の記事で「自己責任論者の言い分がおかしい」と申し上げたのだが、その際、
 
「連載「ボクらは「貧困強制社会」を生きている」「貧困に喘ぐ女性の現実」に対する自己責任論者が一向に消えない件」
 
「物を知らない人間が堕ちるのは当たり前のことだ」と怒られたことがある。
 
正直、なぜそういう飛躍した思考になるのかが僕にはさっぱり理解できない。
 
月〜金勤務、土日休みで月の残業が20時間程度。
老後の貯蓄もちょぼちょぼしつつ、年に1、2度国内を旅行する。
 
この程度の時間的、金銭的な安定を得るのに、他人を蹴落とすほどの努力や知識が必要か?
段差にちょろっとつまづいたくらいで明日をも知れぬ貧困に堕ちるような社会が正常か?
 
個人的にはごく普通のことを言っただけのつもりなのだが、自己責任論者にとってはそれすらも許されないらしい。
 
実際、こういう抑圧によって居場所をなくした人間は恐らくめちゃくちゃ多いのだと思う。
 
そういう意味でも、犯人に対する「他人を巻き込むな」「一人で勝手に〜」といった罵声が新たな模倣犯を生むという指摘は理解できないこともない。
 

社会や他者に憎しみを持つのと、それを実行に移すのはまったく別の話。優劣ではなく次元が違う


ただ、どちらにしても無関係な人間に危害を加えたこと、未来を奪ったことは許されるべきではない。
 
育った家庭が複雑だったとか、社会からの承認欲求をまったく満たされなかったとか。諸々の要因はあれど、無差別殺人に及んでいい理由になるわけがない。当たり前の話だが。
 
 
申し上げたように僕自身もこれまでまあまあキツい経験をしたし、恐らく僕以上に厳しい境遇の方もいるのだと思う。
長年の閉塞感によって精神が苛まれた結果、憎しみの対象が社会や他者に向くケースも絶対にないとは言えない。
 
だが、実際にそれを行動に移すのとは話が別。
理不尽な社会への憎しみを内側に溜め込むのと、他者に向けて爆発させるのでは大違い。
 
僕も当時はめちゃくちゃしんどかったが、それで誰かを傷つけようとは思わないし自殺しようという考えもなかった。おっかないし。
 
「部落差別ねえ…。それより僕のブラック田舎あるあるを紹介してみようか」
 
なので、やはり犯人は我々とは別次元の“何か”なのだと思っている。
 
松本人志の“不良品”発言は優生思想による差別を生み出しかねないという意見も聞こえてきたが、正直これは優劣の話ではない
無関係な人間を殺すような人間は、優れているか劣っているかの尺度で測れるような場所にはいない。
 
みんながマラソンをしている最中に突然射撃をおっ始めて、人に向けて弾を撃ちながら「こっちを見ろ」と喚き散らすイメージ。そんな人間に普通の話が通じるわけがない。
 
優劣ではなく、次元が違う。
 
何度も言うが、それを“不良品”と呼んでいいかは別の話。
 
 
なお、仮にこれを「差別」だと言われるのであれば、残念ながらその方と僕は合わない。ここはもう、どこまで行っても分かり合えない部分なのだと思う。
 

生まれながら? 環境? 両方だと思う。人間を「0か1」で分けるなんて不可能だし

で、肝心の「人間には生まれながらの“不良品”が存在するのか」「環境によるものなのか」についてだが、僕の答えとしては「両方」
 
当たり前の話だが、これはどちらか一方、「0か1」で分けることは不可能だと思っている。
松本人志の「生まれながらの悪人は確実に存在する」という意見には賛同しかねるし、「生まれながらの不良品などいない」と言い切る反対派にも違和感がある。
 
 
恐らくだが、環境が人格に与える影響というのはそれなりに大きいのだと思う。
 
下記のページを見ても、2000年代以降、通り魔事件は確実に増加していることがわかる。
 
「日本の通り魔事件の一覧」
 
さらに、昔は薬でラリった挙句の犯行が多かったが、ここ20年ははっきりと殺意を持った犯行が目立つ。日本全体の閉塞感、将来への希望のなさが無差別殺人を助長したというのは確実にありそうである。
 
 
ただ、どんな状況であれ、99.9%の人は犯罪を犯さないことも事実。
 
下記の記事にも「父親の暴力にさらされた犯人に同情の余地はあるが、同じ家庭で育った弟はりっぱな社会人になっている」という裁判官の言葉もあり、環境によって必ず別の“何か”になるわけではないことも証明されている。
 
「川崎殺傷事件から私たちは何を考えるべきなのかー事件は予見されていた」
 
つまり、結論としては「両方」。
各々の要因が複雑に絡み合った結果、我々の住む世界とは別次元の“何か”が生まれてしまった。
 
理不尽な仕打ち、厳しい環境によって追い詰められ、憎悪の対象が社会へと向く。ここまでは環境の影響が大きいと言えるが、最後の一線を越えるかどうかは本人の素養による。
 
でも、それを証明する術はどこにもない。
だから松本人志の言葉も反対派の意見も一つの可能性として受け入れるしかない。
そんな感じである。
 
 
下記は元大阪市長橋下徹のコラムだが、上述の記事と比較するとなかなか興味深い。
 
「橋下徹「息子殺しを僕は責められない」」
 
篠田博之は犯人と接見することで犯人の気持ちに寄り添うことを選び、橋下徹は被害者遺族と会った経験から「遺族の手当が第一」だと主張している。
 
こういう痛ましい事件は、当事者以外が断定口調で語るべきではないのだなと思わされる。
 
 

 

 

 
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