傲慢になりそうな自分への戒め。作家を40年もやっているという自負があるなら「校正者」と「編集者」は言い間違えたらダメ。絶対にダメ
先日、たまたま下記のツイートを見かけた。
40年も作家をやっていると「表記の統一」がどんどん厳格になっているようで気が滅入ってくる。書く側からすると「ダメ」と「だめ」と「駄目」は全部ニュアンスが違うから、ページで書き分けるのは当たり前なのに、全てを同じにすることが当然のように校正者は思っている。昭和の文豪は不統一が多いのに
— 鴻上尚史 (@KOKAMIShoji) February 19, 2021
劇作家の鴻上尚史氏の発言なのだが、ニュアンスによって使い分けていたつもりの表記の揺れをすべて統一してしまう校正者に対する苦言? 愚痴? である。
例えば「ダメ」と「だめ」と「駄目」はニュアンスの違いによってあえて使い分けをしている。
ところがそれを当たり前のようにすべて統一してしまう校正者が多く、さすがにうんざりしてしまうといった内容。
今回はこれについて僕が思ったことを述べてみようと思う。
なお、基本的には140文字の吐き捨てツールによる文章に過ぎないので、あくまで仮定の話というのが前提になる。
個人的に鴻上尚史氏に対して悪感情はないし、僕の認識違いという可能性も十分あり得る。この方を批判する意図はないことをお伝えしておく。
作家がニュアンスによって表現を使い分けるのは普通。表記の揺れはもちろん、作風に合わせた言い回しや表現方法もさまざま
まず最初に。
作家がニュアンスによって表現を使い分ける場面は普通にある。間違いなくある。
上記の「ダメ」「だめ」「駄目」のような表記の揺れはもちろん、作家独自のこだわりがあるケースも。
最近使われなくなった「ビデオデッキ」をあえて「ヴィデオデッキ」と表現してレトロ感を出してみたり。
菅田将暉&ヤン・イクチュンのW主演で映画化された寺山修司の長編小説「あゝ、荒野」などは、“あゝ”の表記を変えた途端にタイトルから受ける印象がまったく別物になる。
映画「あゝ、荒野」感想。ベッドシーン多くね? 木下あかりの裸を見飽きるまさか事態に。古くね? 2021年設定でこのスタンスどうなん?
もともとこの作品は荒んだ環境で育った2人の若者がボクシングを通じて絆を深めていくという内容だが、タイトルの「あゝ」からは確かに彼らの荒廃した生い立ちを感じとれる(気がする)。
ところがこれを「ああ」に変えてしまうと、その部分があっという間に薄れてしまう(気がする)。
その他、ホラーっぽい雰囲気を出そうと思えば「嗚呼」、ポップな印象を与えるなら「Ah!」などなど。作家が意図して表記に変化をつけるケースは往往にしてある。
それを「適切な表現ではない」「常用漢字ではない」といった理由で統一/修正するのは完全にアウトである。
つまり、文芸作品で最優先されるべきは作家の意向。そこは仕事をする上で最低限守るべきラインと言える。
そして、その判断を下すのは作家本人であり編集者の役目である。
鴻上尚史氏の言う「校正者」って「編集者」を指すんじゃないの? 詳細がわからないので何とも言えないけど
何が言いたいかというと、要するに鴻上尚史氏の言う「校正者」とは「編集者」のことじゃないの? という話。
基本的に校正者は編集者に指示された仕事を忠実にこなすのが役目。「言われたことをそのままやる」ことを求められる立場で、表記の揺れや表現の適切さを勝手に判断することはご法度である。
それに対し、実際の文章を読んで作家の意図を汲み取りハウスルールを作成するのは編集者の領域。校正者が作家と直接やり取りをすることはまずないと思われる。
申し上げたように140文字の吐き捨てツールのみの情報なので詳細はわからない。
ただ、「校正者」と「編集者」の言い違いにより、校正を担当した人間が“出しゃばり”と判断されてしまうことは少々気の毒に思えるのだが、どうだろうか。
と言いつつ、本当に校正者がアカンかったという可能性も捨てきれない。
小規模のプロダクションであれば編集者が校正作業を兼ねることもあるし、財政難で校正に人員を避けなかったというのも考えられる。
それこそ深刻な人手不足により、Wordの「表記ゆれチェック」機能等でろくに設定もせずに済ませてしまったのかもしれない。
その他、担当編集が代わった直後で引き継ぎがうまくいっていないとか、担当編集とは名ばかりで事情も知らない孫請けに丸投げ状態だったという可能性も……。
何らかの理由で鴻上尚史氏の意向が反映されなかったことは間違いないが、その“何らか”がどんな理由かによって今後の対策も大きく変わる。
「校正者」を「編集者」と表現したのであればかなり軽率。作家を40年もやっているという自負があるならなおさら
表題の通りだが、今回の件で鴻上尚史氏が「編集者」に当たる人間を「校正者」と表現したのであれば、それはだいぶ軽率だったと思う。
繰り返しになるが、作家の意向を聞かずに表記の揺れを統一したことはどう考えてもアウトである。
だが、その原因がどこにあるかはTwitterの文面のみでは判断がつかない。
編集者と作家の意思疎通がうまくいっていない可能性が高いのはもちろんだが、それを引き起こす要因となったものは多岐にわたる。
そもそも論として、上記の文面からは氏が執筆していたものがどんな作品かすらもはっきりしない。その中で「原因は○○」と想像すること自体が不毛な気もする。
氏が執筆しているものが文芸作品、もしくはそれに類するものだったと仮定して。
そして、作品制作の工程がごくごくオーソドックスなものだったとして。
氏のような立場の人間が「校正者」と「編集者」を言い間違えることだけは絶対にしてはならない。
作家を40年続けてきた自負、表現方法や日本語に強いこだわりがあるのであればなおさらである。
氏は続けて「統一しない一覧表を事前に作るのは手間だし難しい」ともおっしゃっているが、こういった作家の手の回らない部分をサポート、軌道修正するのも編集者の仕事である。
作家の文体や性格から好み、意向を汲み取り、それをハウスルール化して校正者に伝える。
校正者がなるべく頭を使わないように、誤字脱字等の校正に集中できるように。極力単純化することが編集者の役割であり、上の工程に携わる者の義務でもある。
「うっせぇわ」の批評記事に対する意見を言ってみる。フィルターを通して見えた世界がすべてだって思いがちだよね。僕もだいぶイタいヤツだったし
仮に鴻上尚史氏が「校正者」と「編集者」の区別がついていないのならお話にならないし、仕事に対してあまりに傲慢過ぎる。
そうではなく「編集者」のことを誤って「校正者」と表現したのであれば、言葉を扱う仕事で長年生計を立ててきたにしてはお粗末としか言いようがない。どういう工程を踏んでいるにせよ、表記の揺れに対する意図を汲み取ってほしいと願う相手のことを「校正者」とは呼ばない。
何事も自分一人で成り立つというのは勘違いも甚だしいよね。何かを成す際には自分以外にも多くの人が携わっていることを意識させられた
以上なのだが、今回のような事例を見ると何事も自分一人で成り立つという考えは勘違いも甚だしいと思わされる。
文芸作品は作家のものであることに違いないが、作品が世に出るまでには編集者、校正者以外にも多くの人の手がかかっている。
それぞれの工程で果たすべき役割があり、各々が相関し合ってようやく一つの仕事が成り立つ。
「自分が作った」などと考えるのは傲慢極まりない話で、それだけに「校正者」と「編集者」は絶対に混同してはいけない。
僕自身、鴻上尚史氏ほどの影響力もなければクリエイティブな創作をしているわけでもないが、何かを成す際には自分の見えないところで多くの人が携わっていることを改めて意識させられた次第である。
もちろん鴻上尚史氏が「自分が作った」的な傲慢な考えの持ち主だと言っているわけではない。
ちなみに僕はSNS等で細かい誤字脱字や言葉の間違いをいちいち指摘する人間が大嫌いである。
「美しい日本語」などというフレーズを使うアカウントは総じて地雷認定させていただいているw
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